Column コラム

もし、あなたが、『ラストレター』で初めて、
岩井俊二という作家に出逢ったのなら、
と仮定しよう。

ラスト、体育館に響きわたる広瀬すずの声に感動し、むせび泣きながらも、しばらくすると、ふしぎな感覚が訪れるのではないだろうか。
不在のヒロインが「自殺」していること。そして、その要因でもあった豊川悦司扮する男の登場と、彼の語ることばの奇妙な、だが、確かな説得力。
暗部と呼ぶより他はないこの「引力」は、ぬぐえない魔として依然そこに存在しているにもかかわらず、映画の最後のカットで広瀬が浴びる風には、練りに練られた優しさがある。雰囲気で流れている風ではない。あの風は、この作品と2時間、親密なひとときを過ごしたわたしたちを、間違いなく救済している。
この映画特有の、一言では形容不可能な「誘い」のウェーブフォームは、岩井俊二だけのものだ。あらゆるファクターが渾然一体となって「呼びこんでくる」。これは一種のフォースかもしれない。

岩井俊二の作品は
「森」のようなものだ。

そこにはブリリアントなものと、ダークなものが共棲している。たとえば木漏れ日の眩しさが降り注ぐ一方、深遠な夜露が敷きつめられてもいる。
フィルモグラフィを参照していただきたい。あくまでも一本の作品の全体的な印象でしかないが、ブリリアント=◎、ダーク=◉と、あえてカテゴライズしてみた。明暗を判別するべきではないドキュメンタリーは、❖にしてある。前作『リップヴァンウィンクルの花嫁』までは、綺麗にハーフ&ハーフ。ブリリアントが7本。ダークが7本。そしてドキュメンタリーが2本である。
(フィルモグラフィは、あくまでも劇場で公開された作品だけに限っている。『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』は1993年のテレビ作品だが、95年に劇場公開され、『FRIED DRAGON FISH』もやはり93年テレビ作品だが、96年に映画として公開されている。岩井には深夜ドラマで華々しい経歴があり、それらは劇場公開しても遜色のないクオリティである。また、岩井作品には複数のヴァージョンが存在し、それはテレビやネットなどメディアの違いに対応した「別作品」でもある。また、ショートムービーの発展形としての劇場版などもあることから、枝分かれ=細胞分裂も、岩井俊二という「森」の重要な点だ。)
Filmography
◉ 『undo』(94)
◎ 『Love Letter』(95)
◎ 『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』(93・95)
◉ 『PiCNiC』(96)
◉ 『FRIED DRAGON FISH』(93・96)
◉ 『スワロウテイル』(96)
◎ 『四月物語』(98)
  『式日』(00/主演)
◉ 『リリイ・シュシュのすべて』(01)
◉ 『Jam Films「ARITA」』(02)
◎ 『花とアリス』(04)
❖ 『市川崑物語』(06)
◎ 『ニューヨーク、アイラブユー』(10)
❖ 『friends after 3.11 劇場版』(12)
◉ 『ヴァンパイア』(12)
◎ 『花とアリス殺人事件』(15)
◎ 『リップヴァンウィンクルの花嫁』(16)
  『ラストレター』(20)
一般的に岩井作品と言えば「叙情」のイメージがあるが、それはあくまでも半数ほどの作品に言えることであって、残りの半数は「闇」に覆われていると言ってもいい。それも漠然とした「闇」ではなく、現実に即したリアルに基づく人間の「闇」である。そのピークが、中学校を舞台に「いじめる側」と「いじめられる側」の内面を、画期的な手法で描き出した『リリイ・シュシュのすべて』だった。ここでは、「夏休み」を境に(「境界線」も岩井作品に頻出するモチーフである)人間が一変するキャラクターが登場するが、『ラストレター』が「夏休み」の物語でもあることは象徴的なことかもしれない。
岩井の代表作のひとつとなるであろう『打ち上げ花火』(巨匠、大島渚は「日本映画の100年」というドキュメンタリーを監督した際、この作品を選出し、自らのナレーションで解説している。『打ち上げ花火』はテレビ作品だが、100年の歴史を象徴する「映画」の1本と断じたのである)は、タイトル通り「夏休み」の物語。「夏休み」とは、短いわけではないが、決して永遠ではない、あらかじめ「終わり」が定められている期間のことである。だからこそ、そこではもう二度と起きない出来事が起きるし、少女や少年にとっては、後に「振り返ることしかできない」轍が形成されることになる。岩井は、この「とき」のつかまえ方が絶妙であり、なぜ人は「夏休み」を記憶するのか、また想い出として再生するのか、その原理的本能を、おそらく熟知している。『ラストレター』のベースにあるのは、この「夏休み」感覚だ。
日本の夏の中心にはお盆がある。お盆とは「死者」の帰還のための儀式だが、葬儀から幕を開けるこの映画には「とむらい」の情感が、「死者」を悼む季節と相まって、わたしたちの深層を狙い撃ちする。
「死者」が召喚する記憶の物語。たとえば、そんなふうに『ラストレター』を捉えることも可能だ。その意味において、岩井にとって処女長編映画にあたる『Love Letter』も召喚されることになる。ここでも「手紙」の往来が物語を躍動させていたが、『ラストレター』においては、かつて描かれた「届くはずのない相手への手紙」と「文通」というモチーフが、さらに大胆な構想と構造によって、いわば活劇化されていく。「死者」である姉のふりをする松たか子の振る舞いは、ひょっとすると「普通ではない」かもしれないが、初恋相手に再会したいという「出来心」であり、観る側も共振していく。観客をヴァイブレーションさせる「語り」のポテンシャルもまた、岩井の大きなオリジナリティのひとつ。
ある踏み外しから、流れ流れて、とんでもない地点へと辿り着く『リップヴァンウィンクルの花嫁』は、そのキャタピラーを思わせる前進を、あくまでも軽妙に捉えた異形の一作。あれよあれよという間に展開していく「雪崩現象」のようなストーリーテリングが極まった例でもある。この「語り」は、『ラストレター』において、「小説」というかつてないモチーフを投入することで、さらに洗練・成熟・拡張され、破格の次元へと到達している。

過去すべての 
岩井作品への「返信」。

『Love Letter』がそうだったように、『ラストレター』もまた「過去による現在」の物語と「現在による過去」の物語の邂逅を見つめている(かつて中山美穂が二役を演じたように、広瀬すずも二役を体現している)。
「手紙」が物語をポップに駆動させ、「小説」が深い喪失感を浮き彫りにする。この陰影が鮮やかだからこそ、ラストの広瀬すずの声と横顔に、わたしたちは救われることになるのだ。
少女ふたりの季節ということでは『花とアリス』も想起させるが、何よりも今回のキャストの顔ぶれが岩井のフィルモグラフィを包括して圧巻である。『四月物語』の松たか子、『Love Letter』の中山美穂、『undo』『Love Letter』のみならず深夜ドラマ時代からの豊川悦司、さらには『Love Letter』『PiCNiC』『スワロウテイル』の鈴木慶一、そして岩井俊二主演映画『式日』を撮った庵野秀明までもが召喚された本作は、その存在自体が、過去すべての岩井作品への「返信」であるかのようにも思える。
なぜなら、かつて別の作品で別な人物として存在していた演者たちが、新しい人物として、最新の「夏休み」に出現することは、「死者」の帰還や、「届くはずのない相手に届く手紙」に、とてもよく似ているからである。
ブリリアントなフォルムで、ダークな秘密をも抱擁する『ラストレター』(それは映画であると同時に、小説であり、さらにまっさらな意味での手紙でもあるだろう)の読後感があくまでもさわやかなのは、だから、なのかもしれない。
文:相田冬二